介護を受ける人に

障害者に刷り込まれた負の意識
障害という事実は、計り知れない精神的ダメージを与えるものです。 世間では「受容」という言葉をいとも簡単に口にしますが、 私は「受容」という言葉が嫌いです。受容という言葉からは諦めという響きを連想させるからです。 諦めという言葉には、「普通」を良しとして、「障害」を悪しとするニュアンスを感じます。 それは「劣る」という言葉まで範疇に含んでいるように思えます。

障害者という言葉の響きの中には、人間的に「劣っている」という世間の偏見が込められていて、 当の障害者を、知らず知らず人間的に「卑屈な気持ち」にさせてしまうマモノが潜んでいるように思えてなりません。

確かに障害を持つとそれぞれの障害によって、断念しなければならないものが出てきます。 しかし、障害があろうがなかろうが、複数の道を進む事なんてあり得ません。 それは詭弁でもなんでもない事実です。 障害を持ったものが選ぶ道が、健常者が選ぶ道よりは希少であるだけだと私は思っています。

にも関わらず、積み重ねる事・生きる努力をする事を止め、他人(ひと) に頼る人が多いように思えるのです。私は肉体的に不可能な事を自分でやれと言っているのではありません。

私は前の項で、介護に当たる人に「手を出さず、見守り励ます介護」を訴えました。 しかし、情が深ければ深いほど、危険を回避し、庇護してやりたいと思うものです。 「代われるものなら、代わってやりたい」というのが理屈を抜きにした情です。 残念な事にその情が、長い間に障害者を勘違いさせてしまいます。

何かしてもらうことを当然と考え、自分から一歩踏み出す事を躊躇してしまいます。 決して全ての人がそうだと言っているのではありません。障害があろうと切磋琢磨し何事かをなしえた人は たくさんいらっしゃいます。しかし、そういう人を見ても、才能や環境等を言い訳にして 「挑む」ことをしなくなる人が多いと思うのです。

そして、そんな人の切り札が「障害者という印籠」です。「健常者には解る筈がない」 「障害が軽度な人には解る筈がない」という気持ちが込められた印籠です。

周囲の人はそんな印籠を見せつけられてどう思うでしょう。 「バリアは自分の方から崩したい」ものです。