何時の事だったのか、忘れてしまいましたが、内容だけは、忘れないでおこうと、思っていることがあります。
それは些細なことで妻と口論になった時に、妻から 「何をするにも、人の手を借りないと出来ない、というのが凄いストレスだったり、そのことでいろんな辛い思いをしていると思う。 でも、人に何かしてもらって感謝の気持ちを相手に伝えるということは、人として当然のこと。 障害者だから親切にしてもらって当たり前と思ってない?」と言われました。
多分、身内だからこそ言えた、又そう言うのに、相当の覚悟がいったと思います。 直後は、反発が先にでて、素直に聞けませんでしたが、今ではその言葉を戒めにしています。
私は、プロフィールにあるように中途障害者です。病名の告知を受けた後も、思うように動かない身体で 進行に抗いながら、15年弱勤務を続けました。
その間、心無い言葉や態度に接し、悔しいやら情けないやら そんな思いを数知れずしてきました。しかし、その逆に人から、優しい眼差しや言葉を受け、 胸を熱くしたこともありました。その度に、私は感謝の気持ちを伝えるように心掛けてきたつもりでした。
にもかかわらず、いつの間にか親切にされること、温かく見守られることに「甘え」、そうされることが「当然という意識」 がどこかにあったのです。
私は訪問看護婦さん・理学療法士さん・ヘルパーさん・ガイド・ヘルパーさん等たくさんの人に支えられ、生活しています。 一人一人のひた向きな励ましに支えられ、生活しています。それが仕事だから当たり前と言ってしまえば、確かにそうです。 直接もしくは間接的に労働の対価は、支払われています。
介護に従事される人のなかにも、極めて事務的・機械的に仕事としての業務をこなされる方もいらっしゃいます。 しかし、一方では、被介護者の息づかいに神経を尖らせ、発せられないサイン を読み取り、出来る限りのことをしてあげようと心掛けておられる方もいらっしゃいます。
しかし、大抵その部分は、雇用主に評価されるどころか、 「決められた以上のことをして、それが好意であることを理解しない利用者がそれを当然と思うと 仕事がやりにくくなる」という理由から、対価以上のことはしないように注意されるのです。
多くの事業者では、「私的な会話を避けて、利用者と距離を保つように」という指導があるようです。 「心のこもった」「人間の尊厳を第一番に」等々のスローガンを掲げながら、片方では「距離をとろう」「深入りするな」 といっているのです。
雇用主から支払われる対価は、内容の如何には関係ありませんし、雇用主自身がそれを望むのですから、 距離を置いた、ソツのない業務に終始して当然なのに、目の前の被介護者のために労を惜しまない方もいらっしゃるのです。 そういう方に感謝の気持ちを伝えることが、被介護者にも出来るささやかな支援ではないでしょうか。
支援者と被支援者の関係が、一方通行のものではなく、相互関係にあるということは、そういうことだと私は思います。 雇用主にも評価されないサービス提供者の心のこもったサービスを、被介護者が評価し、それを伝える。
介護支援のサービスの質は、研修や資格要件の基準を引き上げたり・マニュアルを強化すること以上に、 被介護者とサービス提供者と事業者が等距離の新しい関係を築くこと、被介護者自身がその部分に関与していくことから 始まると私は思っています。
バリアは障害者を取り囲む社会の側だけでなく、知らず知らず自分が作っていることもあるのです。 我々の中に潜む「当然という意識」や「甘え」は、ナーバスな問題だけに、 タブーとなって超えがたいバリアを作っています。
在宅で療養をするようになって、いろんなシチュエーションで障害者の方と接触することがあります。 障害に屈せず、むしろ障害を契機に、懐の深い・人の痛みが解る心優しい人に接し、感化を受けることもあります。 しかし、被害者意識に満ち満ちて(障害者は不当に差別されている等)、自分でバリアを作っている人もいます。
私は、障害者の人に「甘え」や「親切にされて当然という意識」を持たないようにしよう、と諭すつもりはありません。 脚注1. 日常生活動作の一部もしくは 全部を介助に頼る人間にとって、介助してくれる人の顔色を伺い、 人として当然の主張さえ控えることが習性のようになってしまう 人が沢山おられることを思うと、そんな偉そうなことは軽々に口に出来ません。
しかし、先ほど紹介したような介護者がいらっしゃることも事実です。障害者の尊厳と権利は他のいかなる人とも同等です。 自らの権利と尊厳を認めさせることは、他者のそれも認めることではじめて同じ土俵に立つ(能力や体力ではない)ことになると思います。
「親切にされて当然」という意識には、親切をする人の時間・労力への配慮が欠落しています。
以上ここまでは、「甘え」や「当然という意識」について、障害者であるか・否かという前に、人としてのモラルに照らして、 私見を書いてきました。
ここからは別の視点で、思っていることを書きますのでお読みになった方々のご意見をお聞かせください。
経済が右肩上がりの成長を続けている時は、福祉関連の予算もそれなりに増大し、充実してきたようです。
一転、成長が鈍化・横ばいもしくは下降の時代に突入し、併せて少子高齢化社会に突入すると(勿論、要因はこれだけではなく 様々な要因が挙げられるでしょうが、それを議論するのが本題ではないので)前提としていた条件(たくさんの人で高齢者・障害者を 支える・税収は緩やかであっても右肩上がりする・年金に全ての人が加入する等々)が崩れ、 従来、聖域と呼ばれていたところにまで手をつけるようになってきました。
にもかかわらず、多くの人たちは、まだ甘い期待を抱いているように思えます。
障害者の関心事の一つ、障害者自立支援法案も国会を通過しましたが、様々な名目で(受益者負担・自己選択と自己決定等々) 国・自治体の財政破綻を補う歳出削減・税収確保の施策が、それ以前から進行しています。
障害者自立支援法案は、社会的弱者と呼ばれる人たちを、国が全面的に保護するという方針を捨て、 手離れさせていく流れの一環と私は捉えています。
措置制度から支援費制度へ、地域での受け入れ体制も整っていないのに施設から在宅へ、障害者医療費の見直し、 私が利用している介護保険でも利用者の自己負担金の増額・認定基準の見直しによる需要者の抑制が進んでいます。介護保険と支援費も いずれ一緒になるでしょう。私が住んでいるところでは、重度障害者への見舞金・特定疾患患者への見舞金も廃止されました。
見直しは障害者施策だけではありません。年金の給付額・負担率も見直されました。失業保険の給付額も見直されました。 配偶者特別控除も見直されました。サラリーマン増税も実施されそうそうです、消費税も引き上げられることは必死です。 障害年金にも課税する時が来るでしょう。(因みに一般年金生活者には課税されています)
「まさか障害者からお金はとらないだろう」「まさか高齢者からお金はとらないだろう」という聖域は頭の中にだけあって、 事態はどんどん進行しています。聖域はとっくの昔になくなっています。
自分の未来を、これまでの常識や願望で他人に託せないことは、明らかです。 では、野党が叫ぶように国政を執行する政権党だけが問題なのでしょうか? そうとばかりは思いません。議会制民主主義が多数決によって運営されることが自明なら、可決されるかどうかは明らかです。
「我が党に政権を付託させて頂ければ、そんなことはさせない」という言葉は、自らが責任を負わなくてよい、 気楽な傍観者であることを自認していることと同義のように聞こえます。
どんな法案も、ある日突然降って湧いたように現れる筈はありません。 ある法案の通過が問題なのではなく、その法案が提出される社会構造を正確に捕らえ、局所的措置で問題が解決するのかを 問い直し、真摯な対応をお願いしたいものです。
あるいは、法案の前後で対象者の生活はどう変化したのか?問題点はないのか?引き続き監視することも重要な責務と思うのですが、 押並べてとはいいませんが、法案が通過してしまえば、 票に繋がる新たな話題探しに、東奔西走する政治家に未来は託せないのです。
私たちは、「まさか」という希望的観測を込めて、未来や健康・生存を他人に委ねてきました。 そうすることが正しい選択とも教わってきました。
しかし、「誰かに自分の一番いい方向を選択してもらって、身を任せていれば 大丈夫という時代は終わった」と腹を括る ことが必要です。不公平感を煽り、受益者負担を叫ぶ時、多数決の原理で事は決します。そのとき障害者は少数者です。
では、障害者に何が出来るのでしょうか?この問いの背景には「何も出来ない」という「諦め」があります。 一人一人出来ることは、違うでしょうが、たくさんの可能性があるように私は思います。
「何も出来ない」と諦めないことです。そのためには何かに挑戦して「出来た」「自分にも出来た」という自信を持ってください。 私が別のページで提唱した簡単な5つの動作は、実は体調改善のキッカケ作り以上に、 障害ゆえに、習い性のようになってしまった「諦めの意識」への「気づき」が狙いでした。
誰かが用意してくれたものに自分を合わせるのでなく、自分の意志を貫くために不足しているもの、必要なものを 要求し、実現していくそうありたいと自身を鼓舞しています。