MLBで活躍しているイチロー選手が2004年にシーズン最多安打記録を塗り変える記録に挑戦している最中、 背中に死球を受けるアクシデントがありました。私はイチロー選手の 「致命的な場所を意図的に外した」というコメントを引き合いにして、 自分の身体をコントロールすることを極めれば、そんなことさえ可能になる。
ということを伝えようとしたのですが、 イチロー選手が本当にそう言ったのか、自分の記憶を疑い始めると、自信がなくなって、インターネットで調べたのですが、 結局見つけることは出来ませんでした。
しかし、たまたま見つけた糸井重里氏との対談を読んで、彼が死球を受けたときそう語ったかどうかは別にして、彼が 野球と向き合う時、彼が目指しているものがそこにあることを知り、 死球を受けたときもそれに近いニュアンスのことを語ったことを確信しました。(違っていたらごめんなさい。)
打つ感覚をつかんだ、その瞬間をこう説明しています。
「凡打をして、その凡打の理由がわかったときなんですね。こういう体の動きをしてしまったから、こうなったんだ。
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そんなことを実行し、目指すことが出来るイチロー選手は、天才としか思えないのですが、 イチロー選手は人から「天才」と呼ばれる事を好まないらしいです。 彼がその位置にいるのは、毎日の努力の積み重ねの結果であって、素質や天分のように思われていることが、 本意ではないのでしょう。
対談の中で彼はこんなことを言ってました。「ヒットを一本打つのに、どれだけの時間を費やしているか。」 又、寄せられた質問を集約して、糸井さんが「イチローさんは、どこから人と違っちゃたのか」という質問に対して 「こんなに苦しいのは自分だけか、と思うことも、たくさんあるんですよ。」と返す言葉の中に、彼に憧れ・彼を目指す人たちへの 上手くなるのは「才能」ではなく、努力を積み重ねる意志なんだ。というメッセージを感じました。
何かに挑戦した成果には、物凄く大きな収穫があります。
自信や糧という言葉では語りつくせないものが、そこにはあります。
例え、達成できなくても、それはあります。
レッツ・トライの中で紹介した、あの程度のことが出来るようになった事、 理学療法士さんにだされた課題の「膝立ち」が出来るようになった事
その程度のことでも、自分の努力で達成した「自信」には大きな々意味があります。
今後のリハビリを左右しかねない、それ以上の出来事なのです。
自分の力で成し得たこと、とそうでない事=してもらった事には雲泥の差があるのです。
意志の力は病気や障害の改善・運動能力の向上に留まりません。寧ろそれはほんの一例です。 得られた自信は、人生への向き合い方までも変えてしまうと思っています。
何の努力もせずに安直に答えだけが与えられたり、結果だけが重視されたり、
資格やマニュアルに頼る風潮の時代には、意志の力は時代錯誤の精神主義のような印象を与えます。
健康や安全・安心までが苦労せずに手に入ることが、力説され、錯覚を与えています。
学ぼうとする意欲・知ろうとする努力・健康を維持する努力・就労の努力等々を忘れ、
機会の均等・不平等のみが叫ばれています。
政治も経済も人の心までが予測不能な混沌とした今のような時代こそ、
意志の力を頼りとし、踏ん張れる強さが必要ではないでしょうか。
障害をお持ちになっている方は、障害という不幸を背負った上に、一層の リスク(ここでいうリスクは極めて広義の「目的達成のための努力、必要な時間やお金をかける事、 達成が成就出来なかった時の精神的ダメージ、物理的危険等」をいいます)を負うことを不条理と考えられる方も多いと思います。
私も嘗てそう考えた時期がありましたし、壁に当たるとそのように愚痴ることがあります。 しかし、ハンデを抱えているからこそ他人とは違う努力や工夫・時間が必要になって、その努力や工夫・時間が 類まれな成果を産むのではないかと考えるようになりました。
つまりハンデは、何もしないで抱えたママだとマイナスですが、ハンデを抱えて挑戦するとプラスに転化する可能性があるのです。 私の場合は「プラスの可能性がある」ではなく「プラスにする」ですが。
私は精神論を説くつもりはサラサラありません。それが過酷なまでの現実です。 そんな風に考えるようになってから、障害の有無や程度で判断することをしなくなりました。
挑戦には、常にリスクが伴うと私は考えています。